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前書き(2017.8.18『どんたっちみー!』制作前に)
 この制作は自分のためなのか、他人のためなのか、ということをよく考えます。
 もちろん、100%自分のためとか、100%他人のためということはあり得ないと思います。きっとそれは、どんな気持ちで書くかという心持ちの問題なのでしょう。とはいえ僕は、作品全体を明確な意図をもってデザインしたいという欲求が強くあります。ものを作る自分と、それを見てくれる誰か。その二つを作品においてどう位置づけるかということは、僕にとってとても大きな問題でした。
 とりわけ他人のため(他者)ということに関して、僕は何か、呑み込むべきものを呑み込めていないという感じをずっと抱いていました。例えば、二年前に作った『プライマリ』は、「ちゃんと売れるものを短期間で作る」という意図の下に作った作品です。結果、「ちゃんと売れるもの」という目標は達成したとは言い難かったのですが、それはまた別のところに理由があると考えていて、少なくとも「他人のため」にウェイトをかけるという点においては、ある種の成果があったと感じました。とはいえそれでも、僕はそうした制作のやり方に、何か納得のいかないものを感じていました。やっていることは(ある点においては)間違っていないように思える。なのに何かが腑に落ちない。そんなモヤモヤを抱えていました。
 そんなある日、とある本を眺めていたら、「制限は自由を生む」という逆説的な文句を見つけました。僕は「これだ!」と思いました。
 僕はずっと、制作というものは自由でなくてはならないと考えていました。フィクションの世界は、現実から切れて独立に存在しなくてはならない。元は僕の頭の中にしかない世界なのだから。そんなふうに考えていたのだと思います。そのために僕は、制作の自由を脅かすであろうすべてのものを排除しようとしていたんです。
 しかし、あらゆる制限のないことは、広すぎるがために不自由です。そのことがわかって、自分の今までしていたことが、自由であろうとするがために逆に自分を不自由にする、そんな行為だったのではないかということに思い至り、目が覚めるような思いがしたんです。
 僕の中の大きな制限として、三つのものが挙げられます。それは「自分・言葉・他人」です。とりわけ他人というものが大きいのですが、そのことを、他人という制限を、自由を開く手掛かりとして、ポジティブに捉えていく。受け入れていく。それが僕のひとまずの納得でありました。そしてそれは、今回の制作の方針でもあります。
 うまくいくかはわかりません。でもとにかくやってみようと思います。
 がむしゃらに書いて、投稿サイトに上げていた、あの頃のワクワクを思い出しながら。

(ふーすい/二原瑞生)
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